信仰としての住宅ローン

もうこういう年齢になっちゃったし、子供のこともあるし、家を購入してはどうかという話がいろいろなところから持ち上がります。現在のところ、子供は同じベッドを共用しているので、子供部屋というのは必要ないんですが、子供がもう少し大きくなったら、もうちょっと大きい住居を探し求めることになります。そうなると必然的に家賃が高くなるので、ローンの返済分と変わんなくなっちゃうから、買わないと損しちゃうよというのが、概ねの論理展開です。

家賃を家主に払うのは金を使い捨ててるようなもんだから、同じ金を払うんだったら、金を自分の家につぎ込んだほうがいいじゃないかという論法です。でも、仮にそのローンが20年ローンだとすると、まあどれだけ少なく金利を見積もっても家の値段の二倍は銀行に返済しないといけないことになります。そうすると、その利子分だけ銀行を相手にした「金の使い捨て」ということになるんですが、人はこういう表現を避けますね。

社会全般的な経済効果を考える時、お金というのは家主といったような一般市民に還元されるよりは、銀行といったような経済のプロ集団の手に渡ったほうがいいのかもしれません。でも、ここ数十年間の彼ら「経済のプロたち」の失策には目を覆いたくなるようなものが結構うあるのも事実なんですよね。

ローンを組んで家を買って、二十年後にめでたくその家が自分の持ち物になったとして、その家の値段が購入価格の二倍になってたとしたら、ちょうどちゃらですよね。ぼくから言わせると、銀行家に偉い顔されて、頭下げて借金して、一生懸命返済して、「ちゃら」ってのはちょっと洒落にもならないと思うんですが、普通の人はそういう風には考えないんでしょうね。

もう一つ言わせてもらうと、ぼくら一般市民の経済力で購入できる家なんてのがこのデフレ経済にあって、二十年後に価格が二倍になるっていうことがあるんですかね? そういった家の二十年後ってのは、なんかまだ建ってるのがほとんど怪しいような気がするんだけど、ぼくにはよくわかりません。

一歩譲って、金利が低くて銀行が金を貸せずにこまってるようなご時世なんで、頭を下げずにローンを組めて、二十年間(気の遠くなるような時間だけど)なんの問題もなしに借金を返済できて、その上時期を同じくして不動産が暴騰しちゃったっていうことにしましょうか。それでも、ぼくは家が欲しくないんですよね。

だって家ってすごく手間がかかるってこと知っているから。ぼくの実家では、ある事情から業者をやとって大掃除なんかをしてもらってたんで、それほど家のメンテを手伝わされたことなんてないんですが、それでもときどき草むしりや、樋の掃除なんてのをしないといけませんでした。カナダってのは、そういうのに加えて、冬には除雪なんてのがあるし、夏には芝刈りってのがあるんですよね。なぜ、わざわざ自分で金を払って、進んでそういうことをしないといけないんですかねと、ぼくなんかは考えます。人はこういうことを口に出して言いませんが、家を持つってことは、家のメンテのための生活が始まるってことも意味するんですよね。やれ、冷蔵庫が古くなったからどうしようかとか、家の壁を塗り直さないといけないねとか、もちろんそういうのは住宅ローンには含まれてないんで、新規ローンという形になるんですけどね。

こういうのってのは、よっぽど家が好きじゃないとできることじゃないですよね。いや、これはもう嗜好の問題じゃなくて、信仰の領域に入っているのかもしれません。だから、あたかも福音のように信者さんたち(ローンで家を購入した人たち)は、ぼくのような不信心者たちに、その信仰がもたらすメリットを説こうとするのかもしれません。うーん、困っちゃいますね。それともファウストのようにある日悪魔が現れて、「ねえ、君の向こう二十年間の人生と引き換えに、家を上げよう」なんて人々に囁いてでもいるんでしょうか。個人的には、ぼくは悪魔に会ってみたいんですが、神にも悪魔にも会ったことはありません。始めから諦められているのかもしれませんね。

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