FRAGMENTS

BOYS BE AMBITIOUS!

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ぼくは「Ambition」がないとよく人から言われてきた。このAmbitionは、例の「Boys Be Ambitious」の「Ambition」だね。ところで、その名言を残した北海道かどこかにある大学の外国人の教授は日本から祖国に帰ったあとで、借金苦かなんかで自殺をしたとかいう話をどっかできいたことがあるんだけど、ひょっとしたらあまり「Ambitious」に過ぎるというのも問題があるのかもしれない。

「Ambition」は辞書を引くと、『野望、向上心』となっている。つまり、それが自己の能力であれ、自己をとりまく環境であれ、現在の自分以上のものを探求する姿勢のことかな。ぼくは、どちらかというと、明日よりは今日という感じ、というよりはとりあえず今日という感じで生きているので、将来の展望というのが、それが自分の置かれる状況(野望)であれ、自分の能力(向上心)であれ、あまりまじめに把握できない。

自分の将来について初めて客観的に考えてみたのは、確か小学六年生のとき、教師から将来何になりたいのかについての作文を書かされたのがはじめてだった。クラスメートは市役所に勤めたいとか、医者になりたいとか具体的な将来の夢について語っていたような気がする。彼らは本当にそうなれたらうれしいと言っていた。ぼくはというと、プロ野球の選手とか、映画の俳優とかだったらともかく(でも実際はそういうのにもなりたくなかったんだけど)、公務員になったり医者になったすることが、なぜうれしいことなのかよくわからなかった。そんな将来の仕事のために、中学や高校や大学があるのだとしたら、そうした施設はものすごく退屈で苦痛なものになるように感じられた。今から考えてみると、実際、あの中学三年生の作文の時間から、ぼくたちはみんな高校に入るために勉強を始め、高校に入ると、大学に入るための勉強といった具合に、学校における現在は具体的な未来のために存在するかのようになった。

もちろん『アリとキリギリス』のキリギリスさんみたく、「今日という一日をあたかも人生最後の日であるかのごとく生きる」といったような実存主義者ではないし、また(格好良さそうだからとかいった理由で)仮にそうなりたくても、経験的にそういう生き方はできないよね。学生時代、テストの前の晩とかに「もう今日ここで世界が終わってくれたらいいのにな」なんて考えたり、かわいい女の子とデートをしていて「時間が止まればいいのに」なんて思ったりしても、もちろん時間は流れ続けて、明日という日もいつも通りに訪れたし。

将来的な展望というものは、適度な不安を感じながら自分を切り詰めたりしなくても持てるような将来の展望を持つといった按配がちょうどいいんじゃないかな。比喩がどうかと思うんだけど、初代スーパーマリオのゲームとだいたい同じなんじゃないかと。適度な不安はゲームの醍醐味のひとつだし、身がひるまない程度にライフを保持しておけば、ゲームの展望というのが開けるといったのがそれだね。でも、無限1UPなんていうのは、人生にはないので(ないんだろうね、少なくともぼくはその方法を知らない)、実際にはライフの数がどれだけあろうが、不安なときは不安だし、そうじゃないときはそうじゃないよね。それにライフがたくさんありすぎても、ゲーム自体に緊張感がなくなるというのもあったりする。じゃあ、ライフがいくつあろうが、つねにライフが一つしかないかのごとくゲームをするのが理想なのかもしれないけど、そうすると実存主義になるよね。先に書いたように、実存主義というのは経験的に難しいので、ぼくの場合は状況がどうあれライフが三つくらいあるという前提でゲームをするということになるんじゃないかな。そりゃまあゲームの進行に支障が出ない程度にライフの数を増やすこともするけど、本題はあくまでゲーム(現在)で、ライフの数(将来)じゃないよね。それでは、実際にライフがなくなったらどうするのかというと、答えは簡単で、ほかのゲームをすればいいんじゃないかと思う。そのゲーム(公務員なり医者なり)じゃないとだめなんだというのも一つの生き方ではあるんだろうけど、別に自分にできるゲームはなんだろうというのを自分を取り巻く状況と自分の能力に応じて判別して(自分にとっては今のところ高校の教師というのがそれ)を、ライフの数が三つあるかのごとくそのゲームに熱中するというのが基本的にぼくの生き方かな。

ぼくは時々思うんだけど、このゲームの選択とかライフの数というのは、自分の能力の如何でコントロールしているようで、本当はそうではないよね。だいたい医者になりたいとか公務員になりたいとか、そういった人生最初の志からして、そうなるための経済力が親にあるとかいうことを含む自分の能力とはぜんぜん関係のない「自分を取り巻く状況」によって決まっているんだから。たとえば、映画の『怒り』の松山ケンイチ君の状況下(親の借金のせいでヤクザさんたちから追われていた)、「ぼくは何があっても医者あるいは公務員になるんだ」というのはちょっとないよね。

ぼくが働いている学校でも、ぼくがずっと昔に通った学校でも、将来の仕事や生活に重点を置いた教育をしているような気がする。でも、将来なんて自分の思いどおりにならないことのほうがほとんどだし、自分の思い通りになったとしても、はたしてそうなったときに自分がその仕事や生活をしたいかというのもわからないよね。だから、もうちょっと、「将来どういうふうな仕事や生活になっても、だいじょうぶだ」っていう順応性や、いつでもチャラの状態から仕事や生活をやり直せるだけの発想転換を学ばせてもいいんじゃないかと、ぼくなんかは思うんだけどどうなんだろうね。


YAMAMIZUKI

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去年の夏休み、阿蘇山近辺の温泉旅行からの帰りに(どこの温泉だったか忘れた)、黒川に入って、日帰り温泉で、山みず木という、黒川の温泉街の端っこのほうにある旅館に寄った。これが絵に描いたような川の側にある露天風呂で、ざあざあと音を立てて流れる川を眺め、それに劣らぬ音を立てて吹き出すお湯を背後に感じながら、黒川特有の透明なお湯を愉しんだ。この川の豪快さとお湯の豊富さを対比させて配置するというのは、ちょっと黒川くらいお湯がふんだんにないとできないんじゃないかな。ぼくはそのとき、「お金を貯めて、ここに来年泊まりに来よう」と考えた。この「絵に描いた」という表現は誇張ではなくて、「ああ、これはここの風呂の写真だな」とフロントの横に掛けてある大きなポスターを見ていたら、実はANAの宣伝ポスターだった。

それから一年たって、こどもと元妻の家族三人で、山みず木にまたやってきた。黒川の老舗の温泉郡は、中心の温泉街の川を挟んで、ひしめき合って並んでいるのだが、この山みず木という旅館は、その川のちょっと上流に位置していて、林に囲まれている。だから、普通黒川でイメージするような、関所風の温泉街という雰囲気は全然ない。だから、チェックインした後、すぐに温泉街の雰囲気を楽しみに、浴衣を借りて、旅館のバスに乗って街に繰り出す。

黒川の街は小さくて、急斜面にある。ぼくたちは坂を下りながら、いくつもの土産物屋さんや食べ物屋さんを観て歩く。道後の砥部焼きとかいった、土地の名産物みたいなものは特にないけど(本当にないのか、きちんと調べていないんだけど)、そのせいかもしれない、何か一つ一色というのではなくて、いろいろなお店が一つずつ個性を持って立っているので、一つ一つがそれなりに面白い。

温泉案内所で「ここは絶対に抑えておいたほうがいいって風呂はどこですか」と尋ねたら、新明館がいいですと言うので、新明館に行ってみると、なるほど旅行客が旅館の玄関前で写真を撮っている。ぼくもこどもにポーズを取らせて、写真を撮る。新明館は老舗で、洞窟風呂という岩を掘って作った露天風呂がある。もちろん川の側にあって、ぼくたちは風呂に浸かりながら、川と対岸にある宿屋の風景を眺める。ぼくは子供の頃にしか黒川に来たことがないので(バブル以降、黒川という温泉ブランドはすごく高かったから)、記憶は確かじゃないんだけど、ぼくの中にこれまでにあった黒川のイメージはこれだったんだなとふと思った。

旅館に一時に着いたぼくたちはいちばん最初の客だった(チェックインは二時)。静かだ。何も音がしない。いや、これは正確じゃない。耳を澄ませるまでもなく、「音がしないな」と思うや否や、川の音と蝉の声が聴覚の隅々に飛び込んでくる。そのときは、まだ他に客がいないからだろうなと思っていたのだが、滞在中ずっとあまり人の声を聞くことがなかった。夏休みが始まってなくて、子供連れの客がいないのもあるんだろうけど、こういった感じの静けさを求める客が集まっているのかもしれない。

今、ぼくは山みず木の部屋のバルコニーでコーヒーを飲みながら、この原稿を書いている。普通、ぼくは音楽を聴きながらじゃないと仕事ができない。何か集中力をずらせてくれるものがないと、集中力自体が持続しないのだ。でもここでは音楽は聴かない。下を流れる川の音と蝉の鳴き声を背景に、ときどき小鳥とクツワムシのさえずりが聴こえる。

これほど気持ちよく文章を書くのは久しぶりだ。ぼくの文章にとって、文章を書く場所って重要な要素だよなと改めて思う。ぼくは街の雑踏とか写真に撮りたくなるような広々とした風景がすきなのに、ここにはそういうものがない。でも、山みず木のような場所もほんとうはすきなんだということに気づかされる。眼下には小さな箱庭があって、何種類もの木々が植えられているので、ちょっと視点を変えるだけでがらっと風景が変わる。箱庭には露天風呂の側の川に繋がる、歩幅ほどの小川が流れている。風呂と川の向こうには雑木林と夏の青空。もうこの文章も終わりだ。ぼくは一息ついて、周りの光景に、目を、そして耳を澄ましてみる。ぼくの感覚はまた川の音と蝉の声に満たされる。また来年もここに来よう。

2011年7月

On a summer afternoon, on the way home from an onsen trip near Mount Aso (I forgot where it was), I went to Kurokawa to visit a ryokan called Yamamizuki, located at the edge of the Kurokawa village. I enjoy the mineralized water that is unique to Kurokawa in Yamamizuki’s picturesque outdoor bath by a river, listening to both the boisterous sound of flowing river and the equally noisy sound of hot water spouting out behind me into the bath. This juxtaposition of the rushing river and the abundant hot spring water might only be possible in Kurokawa, which is famous for its almost limitless volume of hot spring water. After the bath, I visited the lobby of the ryokan. I was very impressed by the ambience and thought to myself, “I shall save money to stay here next year.” As to how “picturesque” the bath was, it was featured on a poster hanging by the ryokan’s front counter, which I noticed had been made by ANA for promoting Kurokawa.

A year later, I have returned to Yamamizuki with my wife and son. Most of Kurokawa’s traditional ryokans are built tightly alongside the main river that runs through the village. Yamamizuki is located in a forest, on the same river, at the upstream of town, and it doesn’t have the typical Kurokawa ambiance of medieval Japanese village. So, after check-in, we put on the ryokan’s yukata, and hop on their bus to enjoy the samurai-ambiance of the village.

The village is small, and it is on steep hills. We stroll down a hill and window shop at the countless souvenir shops and cafes. Kurokawa doesn’t seem to have local specialties like many other famous onsen villages do, but, perhaps because of that, all the stores are equally interesting and personable.

At the information office located at the top of the hill, they recommended Shinmeikan as the bath that I should not miss, so we went there. There were people taking photos outside. I too make my child pose in front of the ryokan and take a few photos. Shinmeikan is a very old ryokan that has a bath in a cave. Like many of the baths in Kurokawa, it is right beside the river, and as I bathe, I look at the ryokans on the other side of the river. I hadn’t been to Kurokawa since I was a child (after the bubble economy, Kurokawa became too expensive for regular people), so my memory was rather fuzzy, but the scenery seemed very much like my image of Kurokawa from childhood.

We were the first guests to arrive at Yamaizuki at 1 o’clock (the check-in time is 2 o’clock). It was quiet. There was no noise. Rather, there was no artificial noise. In the quiet, the sound of the river and cicadas fill my hearing. In the moment, I thought it must be so quiet because we were the only guests, but during our whole stay, I haven’t heard other people’s voices much at all. Perhaps this is because it is before the summer holidays in Japan and there are no children on the premises, but it might also be because many guests visit here to seek this type of quiet.
I am writing this as I drink coffee on the balcony of our room at Yamamizuki. I usually listen to music when I write, for I need something to shift my focus a little in order to sustain my focus. I don’t listen to music at Yamamizuki. Instead, I listen to the sound of little birds and insects through the noise of the river below and the cries of cicadas above.

It has been a while since I felt good about writing. I reaffirm to myself that the place I write is an important factor in my writing. I have always thought that I liked urban cityscapes or wide-open natural scenes, but I am noticing that I also like places like Yamamizuki.

There is a tiny garden below the balcony, and because there are so many different types of trees planted, a slight shift in vantage point gives me an almost completely different view. In the garden, there is a small stream that is connected to the river by the bath. Beyond the bath and the river, there is a forest and the blue summer sky.

This time for writing is about to end. I take one last break, and I try to feel the surroundings with my eyes and ears. My senses get filled again with the sound of the river and the voices of cicadas. I would like to return here again next year.

July, 2011

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