FRAGMENTS

2017 SUMMER IN JAPAN

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ちょっといろいろと事情がありまして、来年はたぶん日本に帰らないことになると思います。これを考えたのは、確か8月初めのことで、ぼうやには日本滞在が残り20日くらいで、「来年はここに戻ってこないと思うので、後悔のないように」と伝えました。それで、従来の夏とはちがって、ぼうやはいろんなことを考えながら、その20日間を過ごしたみたいです。それがなかったら、もうちょっとたのしい夏になっていたんでしょうが、ある意味、たいへん貴重な経験になったみたいです。みなさん、たいへんお世話になりました。感謝しています。特に、鬼木兄弟(「パーセル、女の子たちからきゃあきゃあ言われてる?)と黒川でお会いした韓国人の四人組の方々、今思い出しても、心が温まる出会いをありがとうございました。

Due to various reasons, I don’t think I will be returning to Japan next summer. I think it was at the beginning of August when I decided that, and I told Boya about it with 20 days left on his stay in Japan, saying “I don’t think we are returning here next summer, so act as though you will have no regrets.” Unlike previous summers, Boya seemed to have pondered about various things as he spent those 20 days. Without that, perhaps, his summer may have been more enjoyable for him, but, in a way, it provided him with some valuable lessons. Thank you, everyone involved, for the summer. In particular, thank you, Oniki brothers (“Are girls falling in love with your Purcell’s?) and new Korean friends we met in Kurokawa for the warm memories.


『ある高校二年生の女の子の認識論』

ぼくの働いている高校の課外授業の哲学に関する講義で、「理想を持つことはいけないことなんでしょうか?」といった感じの質問がありました。質問をしたのは高校二年生の女の子でした。ニーチェのすべては解釈であるといった話をしていて、もちろんそれには自己像というのも含まれていて、もし自分の都合のいいように自己像を作るのなら自分が幸せになるような自己像を作るべきであるといった感じの脈絡じゃなかったかなと思います。ぼくはニーチェに倣って、自分の中に自分より偉大な自分を発見できることは素晴らしいことじゃないかと思うと応えました。そうすることによって、現在の自分を肯定するどころか、その自分をより高くするための励みになるから。でも、その理想に届かなかったときには、あるいはその理想の掲げ方に無理があると感じた時には、それを簡単に捨て去る柔軟性を持たないといけないんじゃないかと思います。だって、自分の理想というものが自分を高めるための設問(解釈)だとしたら、この「自分を高める」という効果がなくなった時点で、その解釈は無効になっているんだから。理想を持つことで苦しむ人というのは、多分今の自分が好きになれなくて、理想の自分だったら好きになれるなんて論理の組み立てをするので、理想を達成するまで理想(というか理想像になっていない自分)に苦しめられるということになるのかな。ただ自己像というのは、必然的に世界の在り方を前提とするので、自分を肯定するということは、自分の置かれた環境(世界の在り方)の肯定なしにはあり得ないと思うんです。そうすると、本当の意味での自己の肯定というのは、すべては主観(ぼくたち個人の頭の中のこと)であり、自己と世界という線引きは実は頭の中で起こっているという、ヘーゲル=ニーチェの認識論の是認が必要条件になるとぼくは考えます。実のところ、ぼくの感じる限りこういう主観と客観の線引きをする人はあまりいないんですが、そういう線引きができていないとどうなるか? まず、「主観的世界」と言うべく頭の中の世界(自分の知覚する世界)と「客観的世界」という頭の外の世界(自分が知覚しようがするまいが存在する外的世界)の分離が生じますね。実はこれが普通の人(特に科学者)が描く認識論構図だとぼくは考えているんですが、これだけだとそう厄介じゃないのが(というのが、普通の人は特にこの構図に疑問を感じていませんから)、実を言うとこの構図は頭の外の世界に自分の身体を含んでいるんですね。そうすると、「精神」(頭の中に描く自分)と「身体」(頭の外に描かれている自分)との分離が生じます。これは厄介だなと感じている人はけっこういるみたいで、そのことについては割愛しますが(なぜ「省略」じゃなくて「割愛」かというと、これについてしゃべるのが好きだから)、もしこの構図で自己を肯定しようとすると、「主観的世界」、「客観的世界」、「精神」、そして「身体」という四つの要素が一軸に並ばないといけないことになります。これだけでも大変な作業だなと思うんですが、もっと厄介なことに、この四つの要素のうちの「客観的世界」と「身体」というのは、自分ではどうにもならないんですね。だからこそ、人は自分の肩書や経済力を向上させることで「客観的世界」を、そして身体を鍛えることや飾ることで「身体」を、無難にその四つの軸上に置こうとするんじゃないかと思います。そして、ある種の人々にとっては、そういったものを保持したり向上したりすることが至上命題になったりします。皮肉なことに、そういったものを失うことや損なうことに対する不安はそれらを得ることと比例して増幅するんですけどね(これは結果としてゼロサムになるのかもしれませんが、まあ「皮肉」と言えば「皮肉」です)。しかも究極的には、肩書や経済力というのは吹けば飛ぶようなもので、身体もいつかは朽ちて最後には死を迎えることは明白な事実だと誰もが思っているので、将来的な展望は明るいものではありません。さて、そういった認識論や自己肯定のややこしさにもかかわらず、高校二年生の女の子は「理想を持つこと」がそんなに難しいことだとは思っていないように見受けられます。これは彼女がそれらのややこしさというのを実感していない(ナイーヴだ)からだというのが多分一般的な(大人の)見解じゃないかと思いますが、ぼくは違った見方をします。なぜなら、彼女にとっての「主観的世界」、「客観的世界」、「精神」、そして「身体」はともすれば普通の大人よりもずっと不安あるいは不確定要素を抱えていると思うからです。だから、彼女はそれらの要素を「実感していない」からじゃなくて、それらの要素の脅威にもかかわらず、「理想を持つ」というのが正しい見方じゃないかなと思います。大人がややこしすぎて、うまくできないことを、なぜ彼女は簡単にできるのか? ぼくの見解では、多分彼女が普通の人の認識論的構図における四つの要素の内の三つが基本的に嘘(仮象)だと考えているからじゃないかと思います。その三つというのは言うまでもなく「主観的世界」、「客観的世界」、そして「身体」なんですが、こういう風に「精神」としての自分が本質であるとする構図は、ヘーゲルやニーチェの認識論構図の四つの要素すべてをひっくるめて「自己」とするいう構図に、少なくとも形の上ではかなり近いですね。ただ、この彼女の構図は、「理想を持つ」ということに関して、時間を経るに連れてだんだん難しくなってくるんじゃないかなと思うんです。というのが、「精神」としての自分が「主観的世界」、「客観的世界」、そして「身体」としての自分に相対しているので、大人になるにつれて、多分前者の要素が後者の三つの要素によってその自由を束縛されることになると思うんです。これはたいていの人が大人になるのに通っていく道筋ではないかと思うんですが、デカルトが示唆したように、「主観的世界」は気まぐれだし(ずっと美味しいと思って食べていたものが美味しくなくなったとか)、「客観的世界」は自分とはかけ離れた場所で決められているし(基本的に、学校なんかで学ぶものがこれですね)、そして「身体」としての自分はまあ身体を知れば知るほど精神にコントロールされていないということを実感するようになりますね(スポーツなんかをしていてなぜ身体は思うように動かないのかとか)。そして、「精神としての自分」はそれらの要素によって影響を受けているので、だんだん後者の三つの要素が幅を利かせてきて、最終的に普通の人は、他人のそれも含めて主観なんてあてにならないよと考え、社会で生きていくためにそのルールを学ぶべく尽力して、身体についてはいつかまあ朽ちて死ぬんだなといった諦めを持った、相対主義的で、現実的で、虚無的な「大人」になるんじゃないかと思います。つまりまあ、だんだんそれらの三つの要素が「嘘」じゃなくなってくるというのが、「大人」になる過程とも言えるんじゃないかと思います。それでは、それらを「嘘」だと思い続けるべきなのかというと、そうでもなくて、実はそうしたらもっと事情は厄介になるんじゃないかというのがあります。実際のところはそれら三つの要素が「嘘」だと思えないのですから(自身の主観の曖昧さ、社会のルール、来るべき自分の死を、そんなの全部嘘だよなんて言える人はそう居ないんじゃないかと思います)、もし「理想を持つ」ことのために、それらの要素を嘘だということにすると、「嘘(実際)の主観的世界」と「本当の(在るべきはずの)主観的世界」、「嘘の客観的世界」と「本当の客観的世界」、そして「嘘の身体」としての自分と「本当の身体」としての自分といった二重構造を生み出すことになるんですね。こうなってくると、かなり気合の入った人(「誰が何と言おうが私は私の道を行く」)か宗教的な人(「この世界は嘘だが、その彼岸に本当の世界があって、私はその本当の世界を基準にして自己を定める」)じゃないと、ちょっとこのややこしさは解消できないんじゃないかと思います。でも、普通の人は大なり小なりこの合計七つの要素から構成される人生を生きているんじゃないかなと思います。まあいずれにしても、簡単に「理想を持つ」というのはなくなりますね。先にぼくは彼女の認識論的構図が、「ヘーゲルやニーチェの認識論構図の四つの要素すべてをひっくるめて『自己』とするという構図に、少なくとも形の上ではかなり近い」と書きました。それでは、ヘーゲルとニーチェの場合はどうなのかというと、すべてが頭の中ということになって、基本的にその四つのすべてが嘘(便宜的に捏造されたもの)になります。で、逆説的に言うと、四つのすべてが嘘というのをひっくるめたものが、本当の(嘘じゃない)自己というものになるんじゃないかと思います。そういう自己解釈の下、どういう風に理想が作られるのかというと、これが結構単純で、その四つの嘘が自己にとってきれいにまとまるという想定が理想となるのではないかと思います。

2017年8月


A Question by a Grade 11 Girl on Epistemology

During an extra-curricular philosophy lecture I prepared for students at my school, a student asked me, “Is it bad to have ideals?” She was a grade 11 student. I think it was after we discussed about Nietzsche and his idea about all being interpretations. We were discussing about how that included the images of ourselves, and I was telling her how we should make those images however ways we see fit to make us happy. Following Nietzsche, I responded to her question by saying that it is wonderful for someone to find in herself someone greater than herself. By doing so, not only can she affirm her present self but also encourages her to reach higher. However, if she finds out that she cannot obtain the ideals or finds the process too difficult, she needs to be flexible enough to dismiss the ideals. Those ideals are the suppositions of her future self that is supposed to make her greater, and they have ceased to be effective once it no longer makes her greater. I suspect that people who suffer with their ideals don’t like their present selves but can like their ideals selves. As a result, until they obtain their ideals, they are tormented by the ideals (or rather their present selves that are not ideal). One’s self image presupposes her image of the world. In other words, I think it is not possible to affirm oneself without affirming the situations surrounding her (the image of the world). Consequently, the affirmation of the self in the true sense requires the perceptual framework of Hegel=Nietzsche that suggests that all are subjective (inside our individual heads) and drawing of the line between the self and the world occurs inside our heads. In actuality, as far as I feel, there are very few people who draw the line in such a way, but what if we don’t draw it in that way? First, there will be a separation between “the subjective world,” the world inside one’s head (the world which she perceives) and “the objective world,” the world outside her head (the external world that exists regardless of her perceiving it). In my view, this is the perceptual scheme ordinary people (in particular scientists) have, but while this by itself seems harmless (as those ordinary people don’t feel this scheme problematic), this actually includes her body outside her head. Then there will arise a separation between her “mind” (the self inside her head) and her “body” (the self outside her head). It seems to me that a significant number of people feel this scheme bothersome, but I will not talk about that here (as I like talking about it). If one were to attempt to affirm herself with this scheme, she would need to align all four elements of “the subjective world,” “the objective world,” “mind,” and “body.” I think this alignment on its own is a difficult task, but what is more problematic is that she doesn’t have a full control over “the objective world” and her “body.” Probably because of that, one tries to align “the objective world” and her “body” by improving her social or economical status and by training and decorating her physique. For some types of people, it becomes imperative to maintain or improve such things. Ironically, their anxiety towards losing or spoiling those things increases proportionally with the acquisition of those things (this may result in being a zero-sum, but it is still ironical nonetheless). Moreover, people regard as distinct facts that social or economical statuses are vulnerable and their bodies eventually decay and die, so their prospect is not bright. Now, despite the complexity of the theory of perception and the self affirmation, the grade 11 girls appears as though it is not difficult for her to “have ideals.” Perhaps people (adults) generally consider the reason to be her not realizing their true complexity (being too naïve), but I see it differently. That is because I think she might even have more problematic or uncertain factors surrounding her “subjective world,” “the objective world,” “mind,” and “body.” So, I think it is better to consider it as though she doesn’t “fully realize” those elements but rather she “has ideals” despite the threats of those elements. Why is it so easy for her and too difficult for adults? In my view, I think she considers the three of the four elements basically as lies (appearance). Needless to say, the three elements are her “subjective world,” “the objective world,” and “body.” Her scheme of regarding her “mind” as the essential element is at least on the surface very close to Hegel and Nietzsche’s perceptual framework that regards the “self” as the totality of the all four elements. However, this scheme of hers will present her problems with regards to “having ideals” as the time goes on. That is to say that because her “mind” is relative to her “subjective world,” “the objective world,” and her “body,” as she grows older the former element will be restricted by the latter three elements. This is perhaps what most people experience as they become adults, but as Descartes hinted, one’s “subjective world” is fickle (eg. what always used to be tasty is no longer tasty), “the objective world” is determined somewhere far from herself (eg. I think basically what we learn at schools is this “world”), and she realizes more and more that her mind isn’t really controlling her “body” as she gets to know her body (eg. while playing sports, she realizes how she can’t control her body at will). Because her “mind” is influenced by them, so those four elements start to assert themselves. Then eventually ordinary people come to think that their subjective thoughts are not dependable, work hard to learn the rules of the society they must live in, and resign to their bodies in the end decay and die. In other words, they become relativistic, pragmatic, and nihilistic “adults.” In a way, we can regard one’s progress towards becoming an “adult” as those three elements gradually ceasing to be “lies.” Then, we may think one should continue to regard those as “lies,” but if she does, her situations will worsen. Because she can’t truly regard those three elements as “lies” (I am not sure if there are too many people who can regard the ambiguities of their subjective thoughts, the rules of the society, and their own deaths that are to come as “lies”), for the sake of “having ideals,” if she regards those elements as lies, she will need to posit a double structure of those elements containing her “false (actual) subjective world,” her “true subjective world (that should be existing instead),” “the false objective world,” “the true objective world,” her “false body,” and her “true body.” If she does that, unless she is a very earnest person (“I will go my way no matter what anyone says”) or religious (“This world is false, but there is a real world beyond that with which I determine who I am), I am not sure she can resolve this complexity. However, I think ordinary people are more or less living lives that are made up of those seven elements in total. In either case, she will not be able to “have ideals” without difficulty. I have written prior that her perceptual framework is “very close to Hegel and Nietzsche’s perceptual framework that regards the “self” as the totality of the all four elements. For Hegel and Nietzsche, all are inside our heads and the initial four elements are all “lies” (that are invented for the sake of convenience). Conversely, we may be able to say that the totality of those four “lies” together is the true self that is not a “lie.” Given that sort of the interpretation of the self, how do ideals created? This is actually rather simple, and ideals are simply the ideas of those four lies becoming harmonious.

August 2017

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