日本の高校生たちへのメッセージ

こどもの頃、「がんばって上を行けるようになれ」といったようなことを、よく人から言われていました。これはひとつには、みんな同じような環境で、同じような教育を受けているんだから、努力すれば平均以上はできてもいいんじゃないかという前提があったのだろうと思います。でも、まともに考えてみたら、みんなそこそこに尽力しているんだから、やっぱり成績が上の人は相変わらずいましたし、成績が下の人も相変わらずいました。

まあ、まわりとしては叱咤激励の意味合いで、言っていたのかもしれません。でも、こどもの目からしたら、(実を言うと、今のぼくの大人の目から見てもそうなんですが)、こういうのは終わりのなく延々と続く探求のようなもので、「いったいいつになったら、この教養なり教育なるものをつかって、人生が楽しめるようになるんだ」といったことが問題になってきます。たとえば、学年で170番が150番になったら、「よーし次は130番だ」ってな具合に。

世の中には、人を追い越していくことが好きで、そういったことを指針としている人もいるんでしょうけど、ほとんどの人たちは、将来的に下にいるより、より上にいたほうが、選択肢も拡がるしとかもっと漠然とした理由で、上を目指している人なんじゃないかと思います。でも、当時の日本を見る限り、一生懸命になって上へ上へといって、得るものはいったい何なんだと、まわりの大人を見回してみると、それはマイホームであったり、日曜日のささやかな趣味に費やす時間であったりとかいったものにしか見えませんでした。もちろんそれ以上のものを得た人たちもいました。でも、それもアウディが買えたとか、ゴルフの会員権を持っているとか、愛人を囲える身分になったとか、そういったものでした。でもいずれの場合も、景品の違いだけの問題で、ぼくには競争の延長にしか見えませんでした。

「先の期末では数学が49点取れちゃってね」というのが、「BMの5シリーズを買っちゃったよ。次は7シリーズだな。数年かかるだろうけど、がんばるよ」になっただけ。人を追い越していくことによって得られるものが、そういった見栄とかオモチャみたいなものなんだったら、「教養」とか「教育」とか仰々しい言葉を使わなければいいのに。そりゃまあ、世の中には大学教授とか政治家とか医師とか、得た知識を社会のために役立てている人もいます。でも、そういった人からアウディなり愛人なりゴルフの会員権なりを取り上げたら、いったいどれだけの人がその職業にとどまるかはかなり疑わしいとぼくは考えます。

そういった意味では、割り切れる人たちが、結局のところいちばん出世しやすくなっているんじゃないかななんてさえ考えてしまいます。競争に勝てば、そして競争に勝ち続ければ、いい車に乗れて、いい家に住めて、いい女(男)にちやほやされるということを理解し、そういった見栄とかオモチャに意味を見出す人たちが、(そりゃまあ、それなりの才能も要るんでしょうけど)、勝ち組となるんですね。

そんな風な社会で、教育が崩壊しつつあるなんてことは、至極当たり前のことのように思うんですが、どうなんですかね。だって、教育の恩恵を甘受している人たちは、ほんとうは真の教育が目指すところのものを目指していないわけで、ほんとうにまともな人間になるために教育を受けたいと思っているこどもたちは、当然「ぼくたちが習ってる算数とか社会とかってのは、どういう役に立つの?」と質問するし、そうしたときに返ってくる答えが、「そりゃそうしないと、将来家が買えないし、いい仕事にも就けない」じゃ、このどこが教育なんだって話になりますよね。

ぼくらがこどもの頃には、今のように、いい車に乗って、女を囲ってなんかっていうのが、まだあからさまに成功の証や羨望の対象として扱われていませんでした。だから、まあ大人たちの語る「教育」とか「知識」とかいった言葉も何らかの重みを持っていたんじゃないかと思います。でも、いまはそんなのが当たり前のようになって、そんな勝ち組を決めるようなだけの学校なんかに、こどもに教育の重みを認識せよというのは無理がありますよね。ことさら、いじめなんかあったりしたら、そんな学校に行く理由なんてひとつもなくなって、極端な話、無理にでもそういう学校に戻らざるを得なくなったら、どういうことになるか大臣じゃなくてもわかるんじゃないかと思うんですけどね。

ぼくのコラムをキャムネットで読んでいる学校の生徒なんていないんでしょうけど、ぼくは君たちを応援しています。ぼくは大学で哲学を勉強して、まわりからすごい目で見られました。哲学以上の教養なんてないのにね。いまでも貧乏で、人からは相変わらずすごい目で見られることもあるけど、けっこう楽しく生きています。だからというわけじゃないけど、みんなもがんばってね。